「青春の応援」を美術から
目白研心高等学校の花里裕子先生にお話を伺いました。
「中高での美術教育って何でしょう」と聞くと、「美術を中心に特に学ぶ環境でない高校の普通科の授業でも、日常で美しさを語ったり、生涯表すことを楽しむ礎になれば」と目白研心高等学校の花里裕子先生は答えてくれました。コロナの2年間で「生徒たちの感情表現の不自由」を感じ「青春の応援」をしたい気持ちは強くなっていると感じ、子どもの表現を見守り、その変容を喜びたいという気持ちが一層強いといいます。
美術で「つなぐ力」を育てる
学校の美術で何の力を育てるのかというと、絡み合わせる力、つなぎあわせる力。主体性も、思考力も、感受性も、どれもがじわじわと染み込んで、新しい興味を掘り起こす教科だと私は思います。色や形、イメージなどの造形的な言語や感性、想像力です。美術だからと言って、特に描写力とか表現力とか、ものを作る力ばかりみてしまうと、それも違うんです。観る力は内面と自分なりの価値観を作る力につながります。課題一つでできることではないので、卒業するまでの授業だけでなく、日常生活に絡めた長い目の見通しです。本校の美術の授業で大切にしていることは、多様なものの見方と表し方を知り、体験から実感したことから新しい価値観を生徒たちが作る場面です。
今の美術の授業は、教師がお手本を見せて真似をさせるものではありません。学習指導要領にもあるように、教科を問わず、先生は生徒の力を引き出す存在なのです。
どの教科でもそうですが、美術も、こういう手順で出来上がりがこうなる、ではなく、自分で問いを立て、仲間と試行錯誤して、生徒自身が振り返って何に気づいたか、どんなことに生かせるかに重点を置く時代になってきました。
美術で、これまでのさまざまな学びをつなぎ合わせ、自分の中の多様性や成長に気づく。生徒自身が自分で気づいていない信念や優しさを掘り起こして、他者と違う見方や考えも受け止めて共に学ぶ環境をつくる。道徳や人権教育に近いのかもしれないですね。手を動かして考えたり、心を動かしながら観たりということが、自分と他者の価値観を大事にする共創の未来、想像力へとつながっているからです。
内面を語れる環境づくり
教師が思っている生徒と、実際の生徒の価値観が違うこともあります。だから、生徒が自分の内面をちゃんと表現できるように、感じた違和感や疑問を手放さないように、言葉で内面を語る場面を大切にして、背伸びしない彼ららしい表現を大切に育てたいと考えています。
中高生は、やりたいことを反対する人がいなくても、評価を気にしたり、「自分は肯定されていない」「才能ないし、どうせ無理」と感じることもあります。教室が受験のためだけの学習環境と感じたり。だから、生徒が自分たちで考え、表す気持ち、試行錯誤の楽しみを応援したい、挑戦する勇気が持てる授業空間を作りたいと思っています。
かくいう私も十数年前は、美術大学、芸術大学の合格実績や作品展、コンクールを気にしていました。板書も目標ではなくて「今日の手順」。受験美術、一般的な教養の物差し・・・。私の狭い視野の「美術を学ばせる」ことに一生懸命になっていたのが、「美術で学ぶ」「教師もともに学ぶ」に変わりました。美術という科目になっていますが、はるか昔から人間の営みの中にあり、人生の旅路を勇気づけるもの。人間の美術は、伝えたい、表現したい、知りたいという欲望と人間の根幹にある「心と身体で世界を感じ取る」欲求ではないでしょうか。そう考えると、学校教育としての美術の役割が腑に落ちたのです。そこから課題も導入もすべて変えました。
鑑賞も、教科書に載っているような有名な名画は知っていないと恥ずかしいぞ・・。そういう「知っていて欲しい」の押し付けだったのだと思います。こどもたちが何に興味があるのか、やりたいことを私が先回りして潰していないかと、これまでの自分の授業を見直しました。
自分が変わったら生徒も変わってきました。これで良いですか?ではなく、この部分だけ描きたいとか、飲み終わった後のからっぽのボトルをこんな風に描きたいとか、視点の違いを楽しんだり、表現方法を試すアイデアが次々と出てくる集団になってきたのです。絵じゃなくて写真にしたい、材料はこう使ってみたい、など新しい表現の仕方も生徒から出てくるようになったのを見て、今までの自分を反省しました。「何を表したい?」から始まるのであれば、モチーフ選び、画材選びから始まります。生徒自身が本当に表したい主題を探すという活動に変わりました。
授業で「人間の本能のところ」を掘り起こしたい
生徒は、「あんな感じ」に作ればとりあえずは良いとか、悪目立ちしたくないという気持ちを持つこともあります。ロマンチックなポエムであっても、スカしたカッコつけであっても、自分の「好き」を照れないで出せる空気、それいいねという空気を大切にして、授業を組み立てて美術室も整備します。上手な人のための発表会の場ではなく、作品作りのための主題生成から悩んで、それも楽しんで、これまでの自分の表現からはみだせ!と思うからです。入学時はみんなに見られるのが怖い、不器用だから嫌という子もいます。でもどんな表現も尊くて、違う見方は面白くて、失敗は経験、思い切ってもう一捻りしてみようと、授業でワイワイとやっています。一応締め切りは設けますが、こだわって作り直したり、自分で決める作品はなかなか仕上がらないのです。気軽に試せる環境や内面を打ち明けやすい空気を作るのが大切になってきます。
私は、「中高生の美術で、保育や小学校の図工の造形遊びを思い出させたい」と思っています。泥水や砂場、色水づくり、段ボールにトロトロの絵の具で絵を描き、夢中で素材の素敵!にひたりきった楽しい時間を思い出す。だれか大人の真似をしたところで、新しいものなんか出てきません。教養としてのアートの前の、人間の本能としての部分を掘り起こして、感覚を開いておけば、アートと自分の中で繋がるものがわかり、自分だけの実感が生まれます。そして、競争ではない仲間の存在、一緒に初めての挑戦を楽しむ「遊びの感覚」を思い出して、自分の感覚で振り返って欲しいのです。「見つけた!いいこと思いついた!」や、価値づけを大人が生徒たちから奪っていないか・・と思います。
スケッチするその前のモチーフとの対話などのワクワクする部分を掘り起こしもしないうちに、この学年なら出来上がりはこんな感じと予想して・・にそもそも間違いがあると気づいたのです。子どもの造形教育誌や図工の教科書を購入したり、小学校の図工の授業を見学して、生徒たちがどんな材料経験をして、課題を自分ごとにしてきたのかを知りました。
なぜ学校で勉強するのかというと、多様な価値観を知るため。上手い下手ではなく、「ねえ、見て見て」「それいいねえ」「こうしてみたら」「なるほどね、そういうのもあるのか」と言い合う学びの姿が今はあります。2年間のコロナ禍の中で授業に導入されたタブレットPCも、新しい表現と活用の可能性を広げることができるのは、ごちゃ混ぜの個性と好奇心があり、「こんなこと思いついた」「こういうことできそう!」と共に新しい授業を作ろうとしているからです。忙しい中高生の生活の中でも、遊びのように気軽に、美しいものを美しいと無邪気に感じて微笑む心の余裕が、これまでのたくましい横断的な学びを浮かび上がらせるのです。
共生・共創な美術の授業とは
高校1年の「人を思うデザイン」の学習の際に、グループで紙コップ300個のタワーを20分で立てていくゲームをやりました。何に気がつくかも生徒に委ねたままです。丈夫な構造、チームワーク、役割分担・・・、自分でどんな仕事を探すのか。あるクラスで「ゲームに勝つために、自分や誰かを引き算するのは正しいか?」と問いがたてられました。自分の見方を通して他者に気づいた場面でした。ゲームの活動から「みんなが同じことができるのが目標ではなく、1人1人やりたいことを挑戦するために支えるのがデザインの役割」と柔らかで余白のある答えを出した生徒達には頼もしさを感じました。
生徒と教師のお互いに想像する余白がある課題こそ、クリエイティブが育つ授業がなると私自身は思っています。つまり仲間と学ぶ意味を自分たちで探り、価値を作ろうと思ってほしいのです。それで、図工の造形遊びやワークショップのような活動ではふりかえりを大切にして、生徒たちは自分の言葉で文章に書き、付箋メッセージを渡しあったり、自分とは違うものの見方を知ることが喜びになっている姿が見られます。安心できる空間であれば、生徒はクラスも男女も問わず、自然に声を掛け合い支え合うのです。学校で学んだ多様性は、未来をともに生き、新しい価値を創り上げる力になるものだと感じます。
芸術は人を信じる力
以前、アメリカの強制収容所で日系アメリカ人が作った作品展、「アート・オブ・ガマン」という展覧会をみました。過酷な環境の中、そこにあるものでつえ、ブローチなどの日用品を作ったそうです。人が人として生きていくときには、自分を表現したい、誰かの喜ぶ顔をみたい、美しいと感じる心を大切にする。手を動かし、全身で感じたい、五感のすべてを使って知りたい世界、その欲求を大切にしたいと思いました。コロナ禍で高校生達はさまざまな日常の表現や他者とのふれあいの機会がなくなりましたが、タブレット端末の活用などにより、表現方法も幅広く考えることができるようになりました。主題の生成、作品がどういう意味を持つのかを考え、伝える力が大切になってきています。
ものの見方はたくさんあって、本物を見ると、その「ものをみたい、本質を掴みたい気持ち」が掻き立てられると生徒には言っています。私、「青春の美術」にこだわっているのだと思います。青春時代にやって欲しいのは、ときに寄り道しながら、歌を歌いながら、草花を摘みながら・・、興味を押し殺すのではなく、自分の本当の気持ちを見つけること。これから先、アクシデントなどに出会った時に、「どうせ無理」と水に流すではなくて「そういう考え方もある」「枝葉を落としたら本質は?」と、リカバリー方法を模索したり、失敗も偶然のきっかけに変える胆力を芸術科目で育てたいと思っています。
生徒には、「卒業したらみんな、美術教育のサポーターね」と話します。いつかは小さな子や年老いた家族、世代も国を超えた誰かの表現を勇気づけ、応援する大人になってほしいのです。生涯、新しいものの見方や表現の世界を広げて、ものづくりの楽しみや心をつなぐ社会を作って欲しいと思います。
(取材・まとめ:市川理香 / 写真提供:花里裕子先生)