名門校と単なる進学校は何が違うのか?(2/2)
教育ジャーナリスト おおたとしまさ
名門校に共通する三つめの特徴として「反骨精神」も忘れてはいけない。開成にしても、麻布にしても、時代の狭間で辛酸をなめた者が創立者であることが多い。旧女学校においてはほとんどの場合、良妻賢母思想に対するアンチテーゼとして生まれている。
反骨精神を持ち、常に批判的視点を持っていなければならない
戦時中においても自分の信念に忠実で気骨を見せた学校が、時代は変わっても、未だに社会に批判的視線を向けるその姿勢は変わらない。 社会を変える力になるためには、現行の社会に対して常に疑いの目を持たなければならない。教育が時の為政者の意のままになってしまったら、時の為政者に対する批判の声は上がらなくなる。だから、教育の独立性は保たれなければいけない。私立はもちろん公立も。
福澤諭吉の言葉を借りれば、「古来文明の進歩、その初は皆所謂ゆる異端妄説に起こらざるものなし」。「異端」が生まれない社会に進歩はない。現行社会を維持するリーダーも一定数必要ではあるが、現行社会を変える「異端児」としてのリーダーの育成も必要である。「異端」がなければイノベーションは生まれない。 名門校に通える人は社会の中のごく一握りである。しかし彼らは、時に社会的弱者の分まで力を尽くし、社会を変えていく義務を負っている。現行社会におもねらず、常に批判的視点を持っていなければならない。現行社会における優等生ではないリーダーとしての役割を期待されている。それが新しい時代を切り拓き、彼らが「正統」とされた時、社会はまた一つ新しい階段を上ったことになるのである。 名門校の社会的役割の一つには、一定数の異端的リーダーを育てる機能もある気がする。
以上、名門校に共通する特徴として、「自由」「ノブレス・オブリージュ」「反骨精神」の三つのキーワードについて述べた。名門校では確かにこれらの三つの要素が強い。しかし、これらだけが名門校を名門校たらしめているとは言えない。なぜならこれらの特徴は、まだ名門校とまでは呼ばれない学校にも、程度の差はあるが、当てはまる場合があるからだ。つまりこれらは名門校が名門校になるための前提条件と言える。 ではその前提の上に、名門校が名門校になるためのさらなる条件とは何か。
答えの一つに「生きる力」があると思う。生徒に「生きる力」を授けられるという意味ではなく、学校そのものの「生きる力」が強いのだ。 時代や環境によって、隆盛となる生き物があれば、絶滅の危機に瀕する生き物があるように、学校も時代や社会情勢によって盛衰を繰り返す。長い歴史の中で、時に危機に瀕したとしても、「生きる力」がたくましければ、最終的にその危機を乗り越えられる。
もともとの教育理念にどれだけの生命力があるか。それが極めて重要であることは前述の通り。教育理念とは、できたその時に輝いているだけでなく、経年変化に耐え、むしろ時を経れば経るほど輝きを増すものでなければならない。これが学校のDNAとなる。 毎年生徒は入れ替わるし、教員が変わることもある。しかしDNAが各細胞に役割を与えて生命体全体を維持するのと同じように、教育理念が新しい生徒や教員に染み込み、彼らを学校の一部として取り込んでいく。これにより学校は動的平衡を保つことができる。生物の細胞がめまぐるしく新陳代謝を繰り返すのと同じである。その意味で、新入生は学校に入るのではない。学校の一部になるのだ。名門校においては特にその意識が強い。
DNAが浸透するのは人だけではない。教育プログラムや学校行事にも、教育理念が染み込む。例えば「遠泳」という行事一つをとっても、学校によってそこに与えている意味合いは違う。ある学校では精神鍛錬であり、ある学校ではチームワークの訓練であり、ある学校では自己との対面であったりする。 時代によってグローバル教育だのキャリア教育だの表現活動だのと新しい教育概念が登場するが、DNAはそこにも染み込む。強力な教育理念を持つ学校なら必ず、それらを教育理念の中に位置付けることができる。学校独自の意味合いが加えられることで、グローバル教育もキャリア教育もその学校独自のものになる。それらが複雑に絡み合って絶妙なバランスを保つようになる。どこか一部分だけを切り離すことができなくなる。
それをそのままコピーして別の学校で実行したとしても決して同じ成果は得られない。シラバスはコピーできても、そこに込められた志はコピーできないからだ。
根本の部分は不変のままで、いや、根本の部分が不変であるからこそ、時代や状況に合わせて人的にもカリキュラム的にも動的平衡を保ちつつ、変化し続けることができる。 こうして生命力の強い教育理念は生き残り、鍛え直され、学校の「生きる力」は高まっていく。名門校とは「生きる力」に満ち溢れた学校だと言える。 繰り返す。学校は生き物である。もしくは生き物が集まってできる一つの生態系と言ってもいい。そして人々は、名門校の持つ生命力にこそ、本能的に惹かれるのではないか。
根本の部分は不変のままで、いや、根本の部分が不変であるからこそ、時代や状況に合わせて人的にもカリキュラム的にも動的平衡を保ちつつ、変化し続けることができる。 こうして生命力の強い教育理念は生き残り、鍛え直され、学校の「生きる力」は高まっていく。名門校とは「生きる力」に満ち溢れた学校だと言える。 繰り返す。学校は生き物である。もしくは生き物が集まってできる一つの生態系と言ってもいい。そして人々は、名門校の持つ生命力にこそ、本能的に惹かれるのではないか。
過去の先輩たちの成功体験が丸ごとインストールされる
「生きる力」の他にもう一つ、時間がなければ得られない名門校の条件がある。「やればできる」という「成功体験」の蓄積だ。もっと簡単に言えば「東大に合格できて当たり前」「全国大会に出場できて当たり前」というような感覚だ。
設立以来、教育理念を礎に不易と流行の精神で教育に取り組み、その結果が生徒や教員の成功体験として積み重なっていく。いきなり大きな成功体験が得られることは稀だ。小さな成功体験が積み重なり、学校全体に共有されていく。それと同時に少しずつ「当たり前」の基準が上がっていく。
この「当たり前」が、教育においては実は大きな意味を持つ。
名門校とは、長い年月をかけて積み上げられた「成功体験」の上にある「当たり前」の文化の中に生徒たちを置くことによって、彼らも当たり前にそのレベルを求め、達成するようになる環境だと言うことができる。 まるで何十年も使い込まれた土鍋そのものに様々な種類の出汁のうまみが染み込むように、様々な種類の「当たり前」が学舎に染み込む。そしてそこにいるだけで、生徒だけではなく、教員にも多種多様な「当たり前」が染み込むようになる。一度染み込んだそれは、洗っても煎じてもなかなか抜けない。
何が「当たり前」かは、学校によって異なる。東大現役合格が当たり前という学校も、文武両道が当たり前という学校も、政界や財界で活躍するのが当たり前という学校もある。学業だけでなく、部活に対しても、行事に対しても当たり前がある。リベラル・アーツへの憧れも、ノブレス・オブリージュや共同体意識も当たり前。いろいろな「当たり前」が複雑にブレンドされて、それぞれの学校の「ハビトゥス(個々の階級や集団に特有の行動・知覚・判断の様式を生み出す諸要因の集合)」を醸成する。
名門校の「ハビトゥス」の中には、長い年月をかけて磨き上げられてきた教育理念、鍛え上げられてきた生きる力、積み上げられてきた成功体験が、折りたたまれているのである。その門をくぐった者には、それらが丸ごとインストールされるのだ。 生徒たちは当たり前に振る舞っているだけなのにその学校の「らしさ」を体現していく。「らしさ」を社会の中で発揮していく。社会に「らしさ」が認められていく。皆が「らしさ」を期待するようになる。さらに「らしく」振る舞おうとする。「当たり前」に突き動かされて、人生を歩むようになる。母校への愛と感謝と誇りを感じながら。 人間的成長とともに、「ハビトゥス」の中に折りたたまれていたものが、勝手に展開するのだ。
これが、名門校に棲み着く「家付き酵母」の正体ではないかと、私は今思っているのだが、いかがだろう。
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