アメリカンフットボール唐松星悦選手学校から世界へインタビュー①
アメフトとの出会い(1/4)
「学校から世界へ」第7回のアスリートは、ひたむきに努力することを信条に人生を築いてきた、東京大学運動会アメリカンフットボール部主将の唐松星悦(からまつ・しんえ)選手です。浅野中学校入学を機に、運動が苦手で消極的な自分を変えようとアメリカンフットボール部に入部。中高時代は勝つことができませんでしたが、ひたむきな努力は学業で花開き、東京大学に現役合格。運動会アメリカンフットボール部WARRIORSに入部したことから、東大初の日本代表入りというフットボール選手としても大きな勲章を手に入れました。「自分が本当にやりたいことで競争することが大事」と話す唐松さんに、22年間の人生で得たものを聞きました。
【取材日:2020年6月17日】(取材・構成:金子裕美 写真:東京大学WARRIORS)
唐松星悦選手のプロフィール
神奈川県生まれ。身長185cm、体重125kg。ポジションはオフェンスライン(OL)。中学受験を経て浅野中学校に入学し、アメリカンフットボール部に入部。中学時代はタッチフットボール(タックルの代わりにタッチする、アメフトを基にした競技)、高校時代はアメリカンフットボールに取り組んだ。今でこそ立派な体格だが、中学時代はごく普通。接触プレーが怖くて身が入らない時期が続いたが、高1から体重の増量に励み、徐々にアメフトのおもしろさを感じるようになった。部員が少なかったため、高校時代はフォワードとディフェンスの両方で活躍。アメフトに夢中になるにつれて学業にも身が入るようになり、先生の勧めで東京大学が志望校となる。高3の受験勉強でも目標が決まると、そこに向けて努力することをいとわない性格が発揮され、ほとんど塾に通うことなく志望校を突破。大学生になったらサークルに所属して大学生活を謳歌するはずが、運動会アメリカンフットボール部WARRIORSに入部したことから、再びアメフトと向き合う生活が始まった。体を作り直すと、U19日本代表のトライアウトに挑戦。代表入りして、2018年7月にメキシコで行われたU19世界選手権に出場した。そこで強豪校出身の選手と出会ったことをきっかけに、フィジカルの強化に加え技術面の研究に励み、翌年、シニア日本代表のトライアウトに挑戦。Xリーグ(社会人)の選手が中心を占める中で代表入りを果たし、2020年3月に行われたアメリカ遠征に参加した。その後はWARRIORSの主将としてチームを大学日本一へ導くための方策を模索。コロナ禍で思うように練習はできなかったが、大学最後の秋季リーグ戦に全力で挑んでいる。
ゲーム少年だった小学校時代
--幼少期はどのような子どもでしたか。
唐松さん「活発なタイプではなかったですね。小1くらいから習い始めた水泳やピアノも、親に言われるがままにやっていた、という感じです。ゲームが好きで一人でずっとやっていました。とにかくその世界にのめり込んでやり込むタイプなんです。だから友だちは少なかったですね。小5あたりから心が成長して、何人か仲の良い友だちができましたけど、小4あたりまでは放課後に友だちと遊ぶことはほとんどありませんでした。意識して自分の殻にこもっていました」
--中学受験はご両親の勧めですか。
唐松さん「そうです。母に塾の体験授業に連れて行かれました。『入塾する?』と聞かれたので、『はい』と答えて始まりました。8割は親の意思です。母親がすごく面倒見のいい人なので、勉強のスケジュールから何からすべて立ててもらって、手取り足取り、言われるままに勉強していました」
--勉強は好きでしたか。
唐松さん「好きではなかったですが、苦手だったわけではありません」
--得意な教科は?
唐松さん「よく覚えていないのですが、強いて言えば歴史です」
--それはゲームの影響ですか。
唐松さん「いいえ。ゲームと勉強があまり結びついたことはないですね」
--中学受験では算数が得意な子が多いように思いますが…。
唐松さん「突出してできたというわけではありませんが、算数も人並みにはできました。だから勉強も楽しい時は楽しいのですが、転塾して友だちはいないし、課題をこなすのが大変で、塾が本格化してからは自由な時間がだいぶ減ってしまいました。習い事もやめました。最後のほうは好きなことも我慢して勉強していたので、ストレスが少し溜まるということはありました」
--浅野を受けた理由は?
唐松さん「模試の偏差値が浅野と同じだったので、浅野と聖光学院、逗子開成を受けました。聖光学院に落ちたので、浅野に進学しました」
--男子校ばかりですね。
唐松さん「男子校にすごく行きたかったというよりは、自分の偏差値に合っていて、尚かつ家から近い、という条件で絞るとそれらの学校になるんですよね。母親にも男子校に行ってほしい、という思いはなかったと思います」
--ご両親との関わりについて、覚えていることはありますか。
唐松さん「母親は僕に対して甘かったですね。僕への愛があふれていて、何があってもお尻を拭いてくれるような母親でした」
--ひとりっ子ですか?
唐松さん「妹がいます」
--愛されて育ったのですね。
唐松さん「アルバムの写真の数がエグいです(笑)。父親は、面倒を見すぎる母を見かねて『もう少し自分でやらせたらどうか』ということを言いつつも、あまり干渉されることはなかったです」
心機一転を志すも鳴かず飛ばずの中学校時代
--浅野に入学してアメフトを始めた理由を教えてください。
唐松さん「小学生時代は運動が苦手で、学校にもそんなに馴染めていなかったので、その延長線上で中学校生活を送るのは嫌だなと思ったからです。それは純粋に自分の意思です。運動部に入りたいと思いましたが、運動神経が鈍くてぽっちゃりしていている僕でもできる競技を選ばなければいけません。そう考えた時に、みんなが初心者のアメリカンフットボール部が目に留まり、部の雰囲気もよかったので入部しました」
--入部して学校生活は変わりましたか。
唐松さん「中学生はタックルの代わりにタッチする、タッチフットポールなので、さほどきつくはないのですが、僕は根性なしだったので普通に辛かったです(笑)。体力がないのでうまくいかないことばかりですし、同期の部員ともなかなか仲良くなれず、しばらくは(部活動が)楽しいと感じることもなかったです。同期の中にストイックな人がいて、彼の目線を気にしてしまうなど、そういうしょうもないことで逃げていました」
--今の唐松さんからは想像もできないですね。
唐松さん「本当に、当時は10年後にこうなっているとは考えられなかったです。中2あたりまではやめる勇気がなかったので、かろうじてひっかかっていたという感じです。自分の意思で入部したにもかかわらず、その状況を変えるために自分で考えて何かをする、ということはまったくなく、惰性でやっていました」
--なぜ、乗り越えられたのですか。
唐松さん「試合を経験できたことが大きかったです。僕はそれまで試合というものを経験したことがなかったので、中1の初試合はボロボロで、大泣きしながら参加していました。体がぶつかることには恐怖しかありませんでした。自分よりも大きい相手に当たるなどもってのほか。自分の力がないにもかかわらず、5割くらいの力でしかやっていませんでした」
--試合に出られて嬉しい、という気持ちではなかったのですね。
唐松さん「チームを代表して試合に出るということも怖かったんです。でも、中2になって競技に少し慣れてくると、気持ちが少しずつ変わっていきました。人間関係も紆余曲折ある中で少しずつ変わっていきました」
--浅野に入ってから、ご両親とのかかわりに変化はありましたか。
唐松さん「関係性にそれほど大きな変化はありません。母の面倒見のよさも変わりないのですが、さすがに中学受験の時のように、学校の勉強までマネジメントされるということはなかったです。中学に入ってからは自分でやっていました。ただ、入学当初は普段の勉強どころかテスト勉強もしなかったので、見かねて『もう少し勉強してくれ』と言われたことはありましたけど…。だからといって部活を辞めさせるとか、ゲーム機を没収するとか。そういうことはありませんでした。結局は僕の選択を尊重してくれていました」
--中学時代はアメフトだけでなく、勉強も気持ちがのらなかったのですか。
唐松さん「そうですね。でも、学校から求められるので、いつだったか、勉強をもう一度、ちゃんとやってみよう、と思い、やってみたらスムーズに結果が出たんですね。動機は『しかたなく』でしたが、勉強すればすぐに結果は出るんだな、ということを学んでからは、最低限のことはやろうと思いました。中3から高2あたりまでは宿題とテスト勉強はしっかりやりました」